ハイパーシコシコ自分語りうどん部

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努力は評価できない

 

暇すぎて筋肉ムキムキコスプレイヤー(男性)について調べてたんだけど(どんな状況だよ)

努力ってのは人には評価できないんだなということに気づいてしまった。

 

そのレイヤーさん(漢)の身体は美しかった。6つに割れたワッフルのような腹筋。その上に広がるパンケーキのような胸筋、それらを包み込むように描かれた肢体は、まるでクレープのように逆三角形だ。僕もここひと月は筋トレに励み、ある程度までは身体を絞ることができたが、こんなにまで鍛え上げることはできないと思った。煩悩ばかりの頭に身体が追いつかない。すごいと思った。

 

何が言いたいかって僕は『自分が筋トレをしなければこのレイヤーさんの努力を垣間見えることはできなかった』ということ。

 

よく『努力は評価の対象にならない』なんて言葉を聞く。どんなに頑張っても結果が伴わなければ評価をされることは少ない。一方で重視されるのは「結果」。「終わりよければ全て良し」という言葉があるように、結果がよければ努力は正当な評価をしてもらえる。

今回の場合『筋肉ムキムキのレイヤーさんのコスプレがバチコリハマっている』から『筋トレを頑張ったんだな』ってわかる。『筋トレを頑張ったこの人はすごいな』って評価することができる。

 

極端な例だが、例えば今までに筋トレをしたことがない人が『このレイヤーさんは筋トレをバキバキにこなしてきてすごい』と言ったとする。しかしその人は今まで筋トレをしたことがない。つまりその人の評価は「評価に足るものなのか?」と疑問を抱かれてしまうだろう。

 

一方で、ちょっぴり筋トレをかじったくらいの僕が『このレイヤーさんは筋トレをバキバキにこなしてきてすごい』と言ったとする。

その言葉が口から出るまでの裏には、『腹筋腕立て背筋スクワット様々なメニューをこなしたんだろう。プロテインも飲んだんだろう。ひいては食事制限までしたんだろう。好きなものを好きなだけ食べられないって辛いよなあ。うんうん。『このレイヤーさんは筋トレをバキバキにこなしてきてすごい』なぁ。』という思考が伴う。

 

2つを比べると、圧倒的に後者である僕の方が正当な評価を下しているように見える。

 

しかしここで言いたいのは、果たしてこれが正当な評価なのかな?ってことだ。

 

だってそのコスプレイヤーさんがどんだけ努力してきたか知らないもん。

 

めちゃめちゃムキムキでもうチキンの入ったクレープみたいな身体だけど、全然筋トレしてないかもしれない。生まれつきかもしれない。はたまた本当にクレープなのかもしれない。

そんな可能性は捨て置けないからだ。

 

社会の中の"会社"という枠組みの中では、上司が部下を褒めたり叱ったりするという場面がよく見受けられる。それらは全て上司という人間に同じような経験があるから、褒めたり叱ったりできる。ドカタの親方がアパレルブランドで働く女性店員さんを厳しく指導できるわけがない。評価ができないからだ。もしも上司の身体がたぷたぷで、ムキムキな部下の身体を『いい筋肉だねぇ…///』と褒めたとしても、なんの説得力も生まれない。評価をするための土俵にすら立っていないからだ。

 

そう考えると、人の努力は正当に評価することができないんじゃないかななんて思う。もし正当な評価をすることができる人がいるとすれば、それは自分だけ。自分だけがその経験をし、自分だけが「周りの評価」という客観的な視点を持ち合わせている。周りの評価は他社と比較したときの「一般論」だ。自分と他者の評価のバランスをうまく持ち合わせている人間がこのレイヤーさんみたいに筋肉ムキムキになれるんだと思う。

 

この考えを持っていると、生きるのがすごく楽になる気がする。別に辛いことなんてないが、この気づきは今後の辛い時のためにとっておきたいと思う。

そんなことを考えながら、僕は2個目のチーズケーキに手を伸ばしたのであった。ムキムキ、うめえな。

 

 

 

2019.08.05

ぶれぶれのジョニー

(((((( c(・ω・()・ω・)っ)))))