"走る"という行為は、よく人生に例えられます。
それは、”走る”という行為そのものが【”生きる”という根源的なものを表しているから】に他ならないからですが、その一方で【”目的”を達成するための”手段”】として表されることもあるからです。
ひとりひとりの道のりは違っていて、スタート地点もゴール地点も違う。道中は上り坂下り坂、でもやっぱりおーさk…ばかりで苦しいことばかりかもしれませんが、途中棄権は許されない。つらくて歩いてしまうときもあるでしょう。しんどくて休んでしまうときもあるでしょう。
もしかしたら、走ること自体を辞めてしまいたい、と思うこともあるかもしれません。
そんなとき心の支えとなるものは『仲間と分かち合うこと』だったり『走るという行為そのものを楽しむ』ということだと思うのです。
グループで活動するということは、せつ菜の言うように「ひとつの色にまとまる」こと。
言い換えれば「足並みを揃える」ということでした。
ひとりひとりのペースがあるように、これまでの同好会ではその"足並み"がなかなか揃わなかった。
だからこそ、あえて"足並みを揃えない"という選択を視野に入れ始めたわけですが、その選択が正しいものか、同好会のメンバーは不安で仕方ありません。
一方、新たに虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の"輪”に加わった宮下愛ちゃんは、そんな”足並みを揃えること”を得意としていました。
彼女が各部の”助っ人”として活躍していたのは、”自分の能力を活かしたいからでも””何かに勝ちたいからでも”ありません。
同じ経験をすることで、そんな「喜びや楽しさを分かち合いたい!」という想いからくるものです。
自分の目線ではなく、まずは相手の目線で。
自分のペースではなく、相手のペースに合わせて。
「相手の楽しいは自分の楽しい」になりえるけれど、「自分の楽しいは相手の楽しい」になるかと言われたら、きっと彼女はNoと言うでしょう。
しかし、その他人本意と言ってもいいほどの優しさが、彼女を悩ませているような気がしてなりませんでした。
だからこそ
愛さんが駆け出したことが嬉しかったのです。
彼女のことです。今までだったら、エマちゃんのペースに合わせて一緒に走っていたことでしょう。
しかし彼女は『誰かの笑顔があって、自分の笑顔があると思っていた』ことが『自分が誰かを笑顔にすることができる』という可能性に気づいた。
周りの楽しいも、自分の楽しいも。
自分の心が納得する方に、
自分のペースで走ること自体が、彼女が望む"楽しい"につながると気づいた。
そんな、自分本位な願いに変わったことが、とても愛おしかったりするんです。
心のままに、自分だけのパフォーマンスをした彼女。
そんなステージを見た"虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会"のみんなは、どう思ったでしょう?
少なくとも私は、未知なるミチですら"楽しい"に変えてしまった彼女を見て「確たる”イシ”で進む”ミチ”が、楽しい”ヒビ”になりそう」な予感がして、嬉しくなってしまったのです。
2020.10.25
ぶれぶれのジョニー
(((((( c(・ω・()・ω・)っ)))))