どこかの水族館だろうか。
大きな水槽の中を、大小さまざまな魚たちが優雅に泳いでいる。
水槽の前にぼんやりと演者のシルエットが浮かび、その輪郭を青く縁取っている。
演者の表情は見えない。「まどろみ」という言葉がよく似合うと思う。
中央にはVo.のsuisさんと思わしき人が佇み、マイクを携えている。
舞台に並ぶ楽器が、ひどく現実味を帯びて見えた。
suisさん、ほんとに実在したんだ…
ヨルシカのオンラインライブ「前世」を視聴した。
とても素敵なライブだった。
深い藍の中に響き渡るような、弦楽のアンサンブルから始まった「藍二乗」。
カホンの柔らかな音色が響く「だから僕は音楽を辞めた」。
ストリングアレンジが印象的な「雨とカプチーノ」。
演奏と演出、そしてsuisさんの柔らかな歌声が美しく調和した「パレード」。
どれも聴きたかった曲ばかりだった。それらをストリングアレンジ込みで披露してくれるのは嬉しかった。水槽を泳ぐ魚たちも、楽曲の持つ物語を汲んでいるようにも見えた。
ヨルシカのライブを初めて視聴する自分にとって、すべてが新鮮だった。
ブルージーなイントロに身体を揺らしていると、そのまま流れ始めたのは「言って。」のリフ。彼女の歌い方は、先ほどまでは打って変わって、鼻にかかるようにわいらしい歌声になっている。
同時に、少しずつsuisさんの輪郭が少しずつ浮かび上がってきた。
彼女の髪は腰に掛かるくらい長く、先端はゆるいウェーブがかかっている。どうやら青いワンピースを着ているらしい。
青は深く暗い海の底でも色を失わない色だ。暗いステージの中でも美しい、なんだか人魚みたいだな、と、そんなことを考えていた。
部屋を移動して披露されたのは「ただ君に晴れ」。
原曲よりもスローテンポにアレンジされたそれは、ピアノとカホンの演奏が印象的だった。楽曲的には「花に亡霊」に近いだろうか。suisさんの歌声もより一層柔らかい。
私はこの楽曲を聴きながら、夏にひっそりといった「ただ君に晴れ」のMV撮影地のことを思い出していた。
この楽曲を聴くと夏を思い出す。今年の夏は窮屈だった。来年は晴れればいいなぁ。と。
「ヒッチコック」の演出はとても良かった。モノクロの世界の中でブラウン管テレビのスノーノイズを前に歌う彼女は楽曲の中の主人公のようで、より一層曲中の”先生”に、過去を顧みる機会を懇願しているようにも見えた。
アルバム「盗作」の中から「青年期、空き巣」が流れ、そのまま始まったのは「春ひさぎ」。ステージが緑に染まり、そこに赤い光が差し込む。
水槽を泳ぐ魚たちも朱を帯び、世界観が変わったことを視覚的にも訴えてくる。バイオリンの尖った音が悲痛な叫び声にも聞こえた。
「思想犯」は私が聴きたかった楽曲のひとつだ。
原曲よりも爽やかなピアノの音色。印象的なギターリフ。音の厚みがすごい(語彙)。贅沢な演奏だ。このイントロだけで元取ったよね。
楽曲のMVでは「贋作」しか作れないことに苛まれる(と私は思っている)主人公が、オリジナリティを求めて苦悩する姿が描かれている(と思っている2)。
私がはじめてこの楽曲を聴いたとき、なんて美しい日本語を使うのだろうと思った。それもそのはず。俳人の尾崎放哉の句が幾つか盗用(ここではあえて盗用と表現する)されている。
楽曲の主人公と「思想犯」という楽曲の主張がリンクする点から、こう問われているように聞こえた。
「君は、それでもこの楽曲を良いと言うか?」と。
良い。
ここでようやく気付いたのだが、Vo.のsuisさんが裸足だということだ。そして、これまでにも増して彼女のカットが多くなっている気がする。
その姿が「花人局」で主人公を置いて去った女性のように見えた。
「花人局」のギターのカッティングがめちゃ好きだった。ギター弾いてるのってn-bunaさんなのかな。教えて有識者。
「えっ!?あtっ!!これCMのやつ!!!?!??」ってなったのはサビに差し掛かってからだった。続いて披露されたこの楽曲は「春泥棒」っていうらしいね。めちゃめちゃいいやんけ…。
とても爽やかな楽曲だけれど、歌詞を聴くとどこかもう戻ってこないような喪失感が漂っているように感じた。そこがヨルシカの楽曲の魅力だよなあとか考えていた。
どうやらMVが公開されたみたいなので、しこたま見ていこうと思う。
常々思っていることだが、ヨルシカの楽曲は細やかな「情景描写」から「季節の移ろい」を感じられるところが好きだ。
花吹雪、から春を。雨のにおいから、梅雨を。夜の高さから、夏を。また、その季節に咲く花を見たとき、その花をともに見たあの人を思い出してしまうようなところまで。
季節、という普遍的な「変わってゆくもの」と「変わらないもの」を一緒に描写されると、どこか寂しい気持になる。
喪失感、と上述した理由のひとつは、ここにあるのかもしれない。
閑話休題。
優しいピアとのストリングスのみで構成された「ノーチラス」。suisさんの声は今にも消え入りそうな、震えだしそうな、優しさの中に悲しさを孕んだ美しい歌声だった。ラスサビで光がわあっと差し込んできたときには、鳥肌が止まらなかった。
「ノーチラス」とは対照的に、どこまでも優しい歌声が響いた「エルマ」。歌姫みたいだなって思った。海の中だから人魚か。
さきほどまでまとっていた青の柔らかさが、冷たく感じたのは「冬眠」が演奏され始めたからだろうか。ストリングアレンジ込みの「冬眠」は、原曲よりも冷たく感じる。もしかしたら水槽の藍がそう感じさせているのかもしれない。
視覚のみならず、ただの音階が変わるだけで5感に訴えかけてくる感情が変わるのは面白い、と思った。
イントロのセッションから始まったこの楽曲が最後の曲になるとは思っていなかったと同時に、「前世」というライブタイトルを回収したようにも感じて鳥肌が立った。
眠りから覚めたら世界が変わっているのだろうか。それとも以前のままなのだろうか。またそのとき、自分は変わっているのだろうか…。
エンドロールを眺め終え、満たされた気持ちで冷めたコーヒーを啜った。
そうしてそのまま、積んだままにしてあった「盗作」の小説に手を伸ばした。「思想犯」のMVを観た。「春泥棒」のMVをみた。スマートフォン専用サイト「後書き」に登録した。鉄は熱いうちに打て、とは言うが、まさにその通りだと思う。今までどこか漠然としていた楽曲への興味が一気に沸いた。
ヨルシカの楽曲が持つ「物語性」が好きだ。
私が彼らの楽曲を聴くとき、大抵アルバムの楽曲を通して聴く。どれか一曲を繰り返すこともあるが、それ以外は自分にとって好きな曲も普通の曲もまるっと聴く。彼らの楽曲には、なぜかそうしたいと思える魅力がある。
「盗作」のアルバムを始めて聴いたとき、「盗作」に苛まれた男の半生をつづった小説のようだと感じた。自らの楽曲を「盗作だ」「まがいものだ」と称しながらも、創作を辞められない”情念”。そんな負の感情で満ちた楽曲が続いた先に、幼年期に立ち返り「自らのしたかったことは?」「自分が創作を続ける意味は?」という原点を思い出す。そんな小説だ。
そうして疑問に思う。これはn-bunaさんのお話なのではないか、と。
実際「後書き」を覗いたところ、小説:「盗作」に描かれた内容に通づる信念を感じた。所詮はすべて紛い物だ。美しい音楽もつ美しさは不変だ。素晴らしい創作物いつどんなでも作者に依存しない。などなど。。。
ぶっきらぼうにも語られたそれらは、一切の忖度も感じられないものだった。そのため驚いた。
そして、少しだけ笑えた。
私はこれからも、彼らの音楽を聴き続けると思う。細くとも、長く。彼のブログを読んだ後の視聴後も、このライブが良いな…と思った感情は変わらない。良いものはいい。そう言えることが単純に嬉しかった。
素敵な時間を、ありがとうございました。
ぶれぶれのジョニー
(((((( c(・ω・()・ω・)っ)))))
2021.01.11