ハイパーシコシコ自分語りうどん部

†お会計時に渡されるクーポン券は食器返却のときそのまま捨てがち†

思考のうみ

 

色眼鏡

最近、とあるアーティストのコラムを読むことにハマっている。彼は私が好きなアーティストのひとりで、作詞作曲楽曲のコンセプト作り歌唱以外のほぼ全てを手掛けている。

 

彼はよく「作品の価値はその作り手に依存しない」と言う。後世まで語り継がれる美しい句があるように、老若男女誰もが聞き馴染みのあるメロディーがあるように、美しいものはいつまでも変わらず美しい。作品の美しさは作家の人間性に依存しない。創作物と作り手は切り離して考えるべきだ、と語る。

 

最近、ある映画の商法が話題になっていますね。なんでもチケットを買った近親者に「チケットを譲渡する権利を与えている」だとか。チケットを買った人がチケットを売り捌く。ともすれば転売やらネズミ購やらと呼ばれそうなそのシステムの商売のやつ。合理的だよね。

 

話題に出しといてアレだけど商法の話は別にどうでもよかったりする。ただ、普通に作品を観てみたい「イチ視聴者」として、その「商法」の「情報」は邪魔だなぁと感じる。作品以外のところで、作品の評価を上げたり下げたりしたくないんですよ。鑑賞中にそんな情報を脳裏にチラつかせたくないんですよ。それに対してあーだこーだ言われてる雰囲気も勘弁なんですよ。「嫌い」って言われてる中で「好き」ってめちゃめちゃ言いづらいよね。なんだろねあの小学校低学年から続く悪い風習。

 

結局のところ、私も作品と作者を切り離して考えることができていない。私はそんな作り手の「裏話」を聞くことが好きだし。どのような感性で作品が生まれたのか気になるし。ルーツを辿れば世界観の裏側に潜り込める。人を知ることで作品を知れることなんてのもたくさんあるし。

 

まぁ、なんだ。いつの間にか掛けられているメガネをちゃんと認識したい、とかそういうお話。

 

 

余白

最近になって物語の「余白」が好きなんだなぁと感じるようになった。それは会話で言うところの「間」であったり、小説でいうところの「行間」だったり、漫画でいうところのコマとコマの間だったりする。空白を語らないだけで、空想は膨らみ、解釈の余地は無限大になる。

 

さっきの映画の話なのだが、私は映画を見る前だというのに、原作の方が作品のテーマやメッセージまでを懇切丁寧に語っている記事を読んでしまった。まいったなぁ、と思った。映画を見る前に解釈の余地が死んでしまったから。

 

私はこうしてブログを書いているが、その主たる目的はとある作品の理解をするためでもあったりする。私と同様にその作品に対して語ってる人もいて、昔は「自分の考えがまとまるまで他の人のを読まない」みたいなムーブをしていたたんだけど、それはやはり「自分の解釈の余地を殺したくない」という"解釈の生存本能"からくるものだったのだろう。

 

「人の正しそうな意見」と「自分の曖昧な意見」、どっちが死ぬかは目に見えてるんだよね。そうやって死んでしまった解釈の数を私は知らない。だから最近は、どんな事実も解釈も全て一度疑うことにしてる。みてる〜?未来のおれ?いまも全部疑ってる???これが周りに流されやすい自分のライフハックだよ。

 

 

オタク

「自分、オタクじゃないんじゃね?」

 

そう思ったのが昨年の5月くらいのこと。自粛に次ぐ自粛続きでアクティブな活動もなく、大好きなコンテンツから遠ざかってしまっているなぁと感じていた私は、何故か勝手に鬱屈としていた。

 

私は「オタク」という言葉も存在もかなり好きだったりするのだが、どうやら社会はまだまだオタクには冷たいらしい。いくらアニメ映画がヒットを飛ばそうと、いくら海外に根強いファンが居ようと、オタクが最前線に出ることはまず、無い。

 

あのイケメン俳優が休日は家に篭りっきり!だとか、あのアイドルが実はマイナー作品の超がつくほどのファン!みたいな、"副業"としての魅力としての使われ方しか無い。そんな「オタクは細々とやるもの」みたいな空気感が、実は結構苦手だったりする。

 

だからこそ私は私のことをしっかりやろうと思ったのです。地元を離れて、手に職をつけたのです。丁寧な暮らしを送るようになったのです。そうして私の中でオタクは、結局のところの"副業"になったのです。そう、これがオタクパラドックスです。

 

そもそもオタクってなんや、なんなんや。そう考えた果てに辿り着いた解は「オタクという括りに入らなくてもよい」ということだったんだけど。自分が自分のことをオタクと呼びたかったのは、普通に友達が欲しかったのかもしれないね。

 

 

マイペース

オタクという括りがなくとも、どんな知識や愛が人とは異なっていても、好きなものは好きと言えばいい。そこにオタクかどうかなんて差異は、ない。ということに気づくのに四半世紀かかりました。えへへ。

 

たまに「解釈違い!」「公式◯ね!!」みたいに言ってる人を見かける。実はそういう人たちが結構好きだったりする。それくらい対象に向き合って、確たる意思を持って反論してるわけでしょ?愛がすごいから尊敬してるんですよ。それが傲慢なんて思わない。私はそこまで何かに愛を注げないからね。

 

私は対象に愛をたくさん注げない分、注ぎすぎて溢れることがない。大好き!はないけど、そこそこ好き、は沢山ある。そこそこ好きが沢山あると、それは救いになる。特に自分のことが好きなので、自分が好きだと自分のやること全部肯定できちゃう。やば。無敵なんすね。

 

マイペースが性格が故に、コンテンツや周りに置いてけぼりにされることが多々ある。でもそれでいんじゃね?自分の好きを自分のペースで追いかけられるって、それ幸せじゃね??とかそういうことを最近はよく考えている。

 

というわけでこのブログも、イラストを描くことも手段だということです。自己を表現するための手段。自分を好きになる手段。自分の好きを知覚するための手段。私は会話より、こうして物を使ってやりとりする方が好きだったりするので。イラストなら解釈の「余白」が生まれるし、手紙なら前後の「行間」が生まれる。何より、押しつけがましくない。マイペースな会話が可能だしね。

 

そもそも好きって感情、なんなんだろね。実は自分が口にする「好き」という言葉、なんとなくしっくりきていない。きっとそれは受け取り手がいて初めて成立する感情なんだろね。好きってやつは。

 

兎にも角にも、自分の好きという感情には常に懐疑的でありたい。なぜ好きなのか、何が好きなのか、好きの先に何を求めているのか、それを徹底的に突き詰めた先に残る「なんとなく好き」を大切にしたい。これがおれの、大好きを大好きを叫ぶ。だ!ドンッ!!!

 

 

なんの話だっけ?

 

 

 

2021.01.24

ぶれぶれのジョニー

(((((( c(・ω・()・ω・)っ)))))