ハイパーシコシコ自分語りうどん部

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ハジマリロードと1年生

 

 

新年明けましておめでとうございます。

 

今年もぶれジョニよろしくねぇ〜〜〜。

(((((( c(・ω・()・ω・)っ)))))

 

 

さて、

 

紅白歌合戦でのAqoursのパフォーマンスが興奮冷めやらぬ今日このごろ、あなたはいかがお過ごしだろうか。

僕は例年よりも慌ただしい年末年始を過ごしている。

 

学業が忙しく、年末年始なのにゆっくりすることができないでいた。いや別に年末年始くらい一息くらいついてもいいのだろうけど、年始に公開される劇場版を本気で楽しみたいし、劇場版公開までに片付けておきたい事もある。

だが結局いろいろと納めることができず今に至り、今年は正月感が全くない正月を過ごす羽目になった。いつものように朝起きて研究室へ向かい、一日中PCに向き合う。夕方にはバイトに行き、朝になったら眠る。その繰り返し。例年通りなら実家で芸能人◯付けチェックなりを観てる頃だろうけど、今年はTVすら観れていない。

 

ハジマリとオワリの 線など引けないよ

 

こうなってしまえば年末年始なんて関係ない。暦の上では1年が回ったとしても、僕の日常に変化なんてない。「暦」なんてのは人間が生み出したただの"線引き"でしかないし、『1年の線引き』というのを明確に感じることが出来ない今年は、特に曖昧に感じる。

1年というくくりだけではない。1日の流れの中にある『ハジマリ』と『オワリ』も、人間が作り出した"線引き"のひとつなのだろう。日が昇って1日が『ハジマリ』、日が沈んで1日が『オワル』。世界にとってはおそらくそれが都合がいいのだろうけど、ひたすら夜勤を繰り返してる自分にとって、今はそんな"世界のルール"に対しても疑問を抱く。

 

結局のところ、世界なんてそんなもんなのかもしれない。我々は、昔の偉い人が定めた『ハジマリ』と『オワリ』に則って日々生活を送っているだけなのだから。疑問を抱いたところで今が変わるわけではないが、大事なのは、その"線引き"というものをいかに自分自身のものだと言い張れるかどうかなのだろう。

 

前置きが長くなってしまった。最近色々始まりと終わりについて考えることが多かったので、今日は【1年生の『ハジマリ」と『オワリ』の"捉え方"】について考えてみようと思う。

 

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この記事は、2日後に公開を控えた劇場版にて、1年生が一体どのように立ち振る舞うのかをWaku-Wakuしながら綴った妄想でもあり、彼女たちのこれまでを頭の中で整理しておこうという主旨の元に綴った散文であることを先に述べておく。それそれそれではよろしくねぇ。

 

  1. ハジマリ
  2. オワリ
  3. ハジマリとオワリの間には

 

ハジマリ

1年生にとっての『ハジマリ』はどのようなものであっただろうか。少し振り返ってみる。

 

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できるかどうかじゃない!やりたいかどうかだよ!

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だから善子ちゃんは捨てちゃダメなんだよ!自分が堕天使を好きな限り!

 

彼女たちのスクールアイドル生活が『ハジマリ』を告げる印象的なシーンだ。改めて確認しておきたいのは、1年生はいずれも、誰かに(この場合千歌ちゃん)に手を引いてもらったことでスクールアイドルを始めているということである。自らの"意思"と対等な大きさの"意思"をぶつけてもらうことで、自らの意思の『重み』を知ることができた彼女たち。しかし本当にここが、ここだけがスクールアイドル生活の『ハジマリ』なのだろうか?

 

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その子は黒澤ルビィ、マルの大切な友達。

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私、本当は天使なの!いつか羽根が生えて、天に帰るんだ!

 

違うはずである。

 

あのときかな?

あのときかも?

心当たりたくさんあった

 

様々な事象が複合的に絡み合って形成している"今"の中で、どれがスタートラインかなんて簡単には決められっこない。最終的には高海千歌という存在に手を引かれスクールアイドルを始めた彼女たちだが、『国木田花丸黒澤ルビィが出会っていなければ』『津島善子が堕天使と出会っていなければ』本作の主人公である高海千歌に出会うこともなく、スクールアイドルを始めることがなかったのかもしれない。

 

"今"を語るのに、過去に"線引き"なんて必要あるのかい?それよりも『ハジマリ』だったと言えるものに『心当たりが沢山ある』ことが嬉しいんだよ。

 

そう語りかけてくるような歌詞と歌声に、スクールアイドル『Aqours』として活動した1年間の"濃さ"と言うものを感じて、思わず頬を緩めてしまう。彼女たちは、1年間で多くの『ハジマリ』を経験してきたのだ。

 

 

 

オワリ

『ハジマリ』の裏には必ず『オワリ』がある。高海千歌という少女に手を引かれた瞬間が、1年生3人にとっての『ハジマリ』であるとして、彼女たちが作中で描いた『オワリ』とはどのようなものだろうか。その解が明確に描かれるのは劇場版であるとして、ここでは、いままで彼女たちが発した言動から『オワリ』に対する考えを読み解いてみる。

 

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ルビィだって…でも、花丸ちゃん達とスクールアイドルやってこれたんだもん。大丈夫かな…

『ハジマリ』が『オワル』ことに不安をみせつつも、2人と一緒なら大丈夫だと信じるルビィ。その眼差しは柔らかくも、『出来ないなんてやんなきゃわかんないね』と歌ったあの日のように、力強く遠くを見つめている。

 

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一緒に閉めよう?

花丸の問いに善子はこう応える。

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イヤよ!

スクールアイドルとしての生活が『ハジマリ』であるならば、その『ハジマリ』を『オワラ』せらせることに抵抗を見せる善子。

この扉を閉めたら、裏の星女学院スクールアイドルAqoursとしての時間が終わってしまう… そんなことを感じたのだろう、扉を閉めることを頑なに拒む。

もしくは、気遣い上手な彼女のことだ。善子は『花丸と図書室』の重ねてきた時間を尊重して、花丸の誘いを断ったのかもしれない。

 

花丸は叫ぶ。

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一緒に閉めるずら!

次の場所でまた『ハジメル』ために、苦しみながらも今を『オワラ』せる花丸。

彼女もまた『1年生3人でドアを閉める』という行為を尊重する。それは、次の場所に進んでも、一緒であることを示す決意の表れであり、『3人一緒にドアを閉めることで次に進みたい』という彼女の"願い"のひとつなのだろう。

 

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ありがとね。

図書室のドアを閉める3人。善子の発した『ありがとう』は、図書室へ向けたものではなく、もしかしたら花丸とルビィに向けたものなのかもしれない。

 

彼女たちの絆は固い。

 

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決まっています。契約です。ライブが終わり、学校が統廃合になっても…
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心配しなくても、マルと善子ちゃんとルビィちゃんの契約は"絶対"ずら。
新しい場所になっても…

 

この世に絶対なんてものはない。

彼女が一番この言葉の重みを知っているはずだ。それでも"絶対"と口にしたのはそこに明確な"意思"が存在するからだ。

彼女たちは"事実"では止まらない。ゴールのラインが見えたなら、そこを新たなスタートラインにすれば良い。明確な『オワリ』が存在するなら、その"意思"を以ってまた『ハジメル』だけだ。

 

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じゃあ、最後にしなければいいんじゃないかな!

 

3人一緒だったら、どこまでもゆけるはずだから。

 

何度だって挑戦できちゃう

 

多くの"終わり"に直面してきた彼女たちの、新たな決意が窺える歌詞である。

 

 

 

『ハジマリ』と『オワリ』の間には

 

『ハジマリロード』にひとつ気になる歌詞がある。

東へ 西へ行こう 追い越しちゃえ太陽を

それは、追いかけるべき対象の"太陽"がここへきて『追い越す』対象になっていることだ。『太陽を追い越す』という歌詞にはどのような意味が含まれているのだろう。

 

普通に考えれば 太陽の裏側、すなわち太陽系の中で太陽を中心として反対の位置にゆく ことだが、そんなことをする必要も目的も見当たらない。

 

では"時差"を考えてみる。

「10時に東京を出発した飛行機が3時間飛んで12時に北京に着く。」

という例を挙げてみよう。この仮説はこの例を極端にした非現実的な話だが、もし飛行機が地球の自転より早く飛ぶことが出来ればどうなるだろうか。

「10時に東京を出発した飛行機が◯時間飛んで9時に北京に着く。」

なんて話が出来上がる。

するとどうだろうか、人は簡単に太陽を追い越すことができる。

沈みゆく夕日が登るのを眺めることができ、登りゆく朝日が沈む様を見届けることができるのだ。

そしてこれは【時を巻き戻す】ことに繋がる。

 

だが、1年生3人が導いた『オワリ』に対する答えはそうではない。

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同時に、やっぱりどうなるかわからない明日の方がちょっぴり楽しみでもあって。

ああ、これが、"時が進んでいく"ってことなんだなぁって、実感できるずら。

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そして気づく。きっと、2度と同じ時はないから。この時が"楽しい"って、思えるのかな。

 

"リロード"とは、同じ時を繰り返すものではない。今を"更新"するものである。

彼女たちはいつの日からか、『楽しかった今日』よりも『もっと楽しくなるであろう明日』に意味を見出すようになった。はじめは高海千歌という存在に押される形で動いていた彼女たちだが、幾つもの『ハジマリ』と『オワリ』を繰り返す中で、今度は自らの足で自らの世界を広げていったのだ。

 

一つの世界に居続けるっていうのは、本当に楽で気持ちのいいものだ。だが、それでは世界を広げることはできない。世界を広げるというのは、自らの知らない世界に出会い、自らの足で踏み込むことで、その世界を"自分の世界"にしてゆくことだと思う。それが一般的に言う『成長』であり、それを繰り返してゆくことが、大人になってゆくということなのだろう。

 

僕には、1年生がそのプロセスを体現している『象徴』のような存在に見える。

本の世界に身を置いた少女が
スクールアイドルの世界を眺めているだけだった少女が
堕天使としてインターネットの世界に身を投げた少女が
心からやりたいと思えるものに出会い
楽しいと思える時間を共有し
同じ時を進んできた。

だからこそ、3人一緒なら大丈夫だと知っている。

世界を広げた彼女たちが伝えたかったのは『とにかく太陽を追い越すくらいに"動け"』ってこと。今を楽しくするために、また"楽しい"と思える瞬間に出会うために『動け!』って言ってるんだと思う。でなければ、この楽曲を歌う彼女たちからこんなにも沢山の"世界"と可能性を感じないだろう。

 

『ハジマリ』と『オワリ』を決めるのは

世界じゃない。明確な意思を持った彼女たち自身なのである。

 

そんな意思を示し、楽しそうに歌い上げてくれるこの曲が僕は大好きだ。

Aqoursでの1年間を通して培った経験が花開くであろう劇場版が、本当に楽しみで仕方がない。

 

1年生の活躍を期待しながら〆とさせていただく。

 

劇場版!最後まで見届けような!!!

 

 

 

ぶれぶれのジョニー

(((((( c(・ω・()・ω・)っ)))))

 

2019.01.02